大人の考える技術

若林計志が経営・MBAのフレームワークやマネジメント理論を応用しながら、ビジネス・社会問題を考察します

前提を疑う事からイノベーションが生まれる

2011年の年末に「プロフェッショナルを演じる仕事術」(PHP)を上梓してから1年と少し。

この本は、私自身がいろいろな人から教えてもらった「学び方の方法」を、多くの人とシェアしたいという思いから執筆しました。

この本を貫いているテーマは

「我々を取り巻いている世界は何なのか」

「我々に何かを演じさせようとしている世界をどう主体的にコントロールできるのか」

ということです。

このテーマを掘り下げていくと、そもそも「社会はなぜ今のようになっているのか」について考えることになり、さらにその社会の中で

「これは良いこと(善)」「これは悪いこと(悪)」

という善悪の価値観がどのように決まっているのかを考えることになります。

私たちは

「《人を殺してはいけない》なんて当たり前だ」

と思っています。ただ子供に「なんで人を殺しちゃいけないの?」と問われたら、何と答えたらいいのでしょうか?

大人が

「駄目なものは駄目なんだ」

と言ったら子供は納得するでしょうか?(僕が子供だったら納得しません)

私たちが普段から「当たり前」と思っていることは、何かの理由によって作り出されています。

それを知るためのひとつのヒントが「構造主義」という哲学にあります。何やら難しそうな言葉ですが、ざっくりと僕の解釈を書いてみます。

まず、そもそもの社会の成り立ちについて考えてみましょう。

何の秩序もない原始的な社会では、人は何をしようが自由でした。

人を殺そうが、盗もうが、誰もとがめる人はいないし、食糧が少なければ人を殺してそれを奪ってもいい。

このように人間はもともと、自分のしたいことを自由にする権利(自然権)を持っていたのです。

ところが自分が他人を殺す権利を持っているということは、同じように他人も自分を殺す権利を持っているということを意味します。

これは怖いことです。突然誰かがやってきて、何の理由もわからずに殺される可能性もあるからです。

すべての人が好き勝手に行動して、その結果として命を失ってしまっては好きなこともできなくなってしまう。

そこで人々は

「自分が好きなように何でもやっていい」

という権利のうち、その一部(たとえば他人を殺してもよいという権利)を放棄して、

「その代わりに他人も自分を殺さない」

という約束をするのが得だと考えるようになります。

もちろん世の中には自分勝手な人もいて、

「そんなの知るか!」

と傍若無人に振る舞う人もいますので、そんな事ができないように、みんなで決めた約束を破ったら罰を与えることもできるような権力者を決め、その人に仕切ってもらうことにします。これが昔の「王様」の役目です。

ところが、どこの世界でも人は権力を与えられるとだんだんと暴走します。王様だって、そのうち

「私はエラいから、何をしてもいいんだ」

と勘違いして、民衆の命を奪うような独裁政治をするようになってしまう。人々が殺しあわないように、その約束の保証人として「王様」にお願いしたのに、その王様が好きなように民衆を殺すようになってしまったら、まさに本末転倒。

そこで、王様という個人ではなく、「法律」という社会契約によって

「これはやっちゃだめ」

「これはやってもいいよ」

という取り決めをしましょうという風に、社会は進んでいくのです。

ただし法律に基づく選挙などの手段によって選ばれたリーダーが、本当に国民のために働くかというと、必ずしもそうではありません。実際には専制政治や独裁政治につながる事も多くあります。

またリーダーを取り巻く人たちが既得権益を守るために、法律を操作したり、政敵を排除するようなことも頻繁に行われます。(いわゆる組織の腐敗です)

選挙民も選挙民で、死なない程度にそこそこの生活ができれば満足だし、下手に権力者に逆らって返り討ちにあっても損なので、だんだんと従属するようになります。(どこかの国や、どこかの会社みたいですね)

そして「権力者に従う事はいい事だ」という価値観がだんだんと社会に広がっていくのです。

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もう一度整理します。

自分ができる事が100あったとして、そのうちの1つである「人を殺す」をあきらめることによって、99が自由にできるような社会を作りましょう、という合理的な発想が元々あって社会が成り立ちました。

そこに人を殺すことが道徳的に「いい」とか「悪い」とか価値判断はなかったのです。

そして殺人以外にも、人々が快適に生活できるように、さまざま約束をしましょうということで社会的な契約が結ばれていくことになったのです。

ただし、

「自分のしたいことをするために、その自由の一部をあきらめる」

という極めて合理的な理由で決められた約束だったのに、それがずーっと繰り返し行われているうちに、「当たり前」の事になり、そもそもの理由は、人々に完全に忘れ去られていきます。

そして「大勢の人がやっていることはいいこと」(善)だ」という価値判断に変化していき、

「みんなやっている事は正しいことだから、みんなと同じようにやりなさい」

と考えるようになってしまうのです。

そもそもの合理的な理由が忘れ去られ、「群衆(大衆)に従う事自体が良いこと」と考えるようになると、群衆はだんだんと暴走し始めます。

人と違う事をやっている人は、そのやっていること自体が正しいかどうかより、

「みんな(群衆)と違う事をする奴」=「悪」

のレッテルを張られるからです。

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余談ながら、学生時代の私は

「この校則は変えるべきだ」

「なぜこの校則は今のようになっているのかを説明してほしい」

と生徒会や顧問の先生に何度も質問するような「煙たい」生徒でしたが(汗)、彼らから出てくる答えは決まって、

「大勢の学生から不満の声は上がっていない」

「他校も同じようにやっている」

というものでした。つまり

「大衆が従っているんだから、それが正しいに決まっている。だから従いなさい」というものだったのです。

実際に

「大衆に反抗するなんてガキのやることで、権力に従う事こそが「大人」になることだ」

みたいな妙に冷めた見方が多数派でしたし、私を危険人物として距離を置くクラスメートも結構いました。

僕が持っていた学生時代に持っていた「違和感」に対して、明快な説明を与えてくれたのは、大学に入って勉強したホッブズ、ルソー、ロック、カント、ニーチェでした。

「殺人の禁止」のように、そもそも合理的な理由があり、それに従う事が良いものもたくさんありますが、そうでないものもたくさんあります。したがって、きちんと吟味せずに何でもかんでも大衆の価値観に従っていると、自分自身も「畜群」になってしまう可能性があります。

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ここまで、ざっくりとした社会の流れを解説しましたが、私たちが「これは正しいこと」「これが悪いこと」と考えている事が、必ずしも<普遍的な事実>ではない事がわかります。

もともと価値観は合理的な理由によって人工的かつ社会構造的に作り出され、そして大衆によって実践されているうちに「当たり前」になっているだけなのです。

「プロフェッショナルを演じる仕事術」では、普段当たり前だと思っている価値観が、いったい何に立脚しており、そして世の中が自分に何を演じさせようとしているかに気付き、

そして最後には自分の意思でコントロールできるようにしよう、と提案しています。

プロフェッショナルとは、大衆の価値観に盲目的に従うのではなく、ある意味で自分の価値観を絶えず疑い、何度も問い直すことで、自分なりの価値観や哲学を確立し、その道を生きている人のことなのです。

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イノベーション研究などでよく出てくるC. アージリスの「ダブルループ学習」は、まさに前提を疑う事の重要性を示唆していますが、前提を疑う重要性は、政治哲学では何百年も議論されているテーマであり、よく考えてみるとビジネスのヒントが一杯です。