大人の考える技術

若林計志が経営・MBAのフレームワークやマネジメント理論を応用しながら、ビジネス・社会問題を考察します

日本人が教室で質問しない訳

先週、ある外国人講師が面白いことを言っていました。

「外国人でも日本文化を少しでも知っている人は、学会等で日本人教授にあまり質問しなくなる」

kyoshu

よく

「外国人はセミナーや研修の最中にどんどん質問するが、日本人はあまり手を上げて積極的に質問しない」

と言われます。その理由として

「仲間からバカだと思われるのが嫌」

「日本人は恥ずかしがり屋だ(奥ゆかしい)」

「遠慮している」

といた理由が挙げられます。

でも、それが本当の答えだとしたら、冒頭の話は

「日本文化と知るほど、外国人も恥ずかしがり屋になる」

という妙な結論になってしまい、しっくりしません。

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よくコミュニケーション論で

「日本人はハイコンテクスト、欧米はローコンテクスト」

「日本人はHolistic(全体的)な理解の仕方をする」

など言われますが、私はこの辺りに答えがあるのかなあと思っています。

日本流のハイコンテクストな説明の場合、行間に多くの意味が込められています。

さらに結論を後に持ってくることも多いので最後までよく聞かないと意味が理解できません。

したがって、誰かの話を聞いてよく理解できない(咀嚼できない)場合、相手ではなく、自分の理解力(推理力)に問題があると考えるのです。

他の人はもう理解できていると思えば、他人の時間を邪魔しないように、あとで講師に個人的に質問しにいくのが一般的でしょう。

例えば、禅の坊さんが

「それは豆腐のようなものだ」

といえば「それがどういう意味のなのか」は自分で考える必要があり、「意味が分かりません。教えてください」と質問はしない(してはいない不文律がある)のです。

一方、ローコンテクストなコミュニケーションの場合、

内容が分からなければ、説明者の問題である可能性が多く、

また途中で遮って質問して、あまり問題が起きません。

このあたりが、

「外国人でも日本文化を少しでも知っている人は、教室で日本人教授にあまり発言しなくなる」

という現象が起きる理由なのかも知れません。


私はこういうことに関心を持ち出したのは、留学中に授業後に講師に質問に行くことをとがめられたから経験があるから。

アメリカ人にとっては、日本からの留学生が授業後に個人的に(こそこそと)質問に行く行為は、アンフェアな行為として映っていたのです。

さらに教授からも、

「授業中にもたっぷり質問の機会をもうけているに、どうしてお前は後になって質問をしにくるのか」

と逆に聞かれる始末。

欧米の学生にとっては、クラスで積極的に発言/質問することは、クラス全体で問題意識をシェアし、学びを進めるために貢献であるという意識があります。

それをしないで、後で自分だけで質問に行く態度は、下手とするとアンフェアに映ってしまう可能性があるのです。

別にどっちがいい悪いという問題ではないと思いますが、コンテクストの差によって、「質問」のスタイルにも差が出てくることを知っておくことが、グローバルコミュニケーションのような場では意外と重要だなと思う次第です。