下記の五郎丸選手の記事は考えさせられる。
具体的な目標があった上での英語学習なら、そんなに苦にならないはずなので、義務教育も専攻別に特化すれば結構うまくいくかも。
ビジネスマンにとってMBA英語よりも、セサミストリートの英語のほうが聞き取りにくいことは多々ある。鼻くそ(booger)とか、教科書にでてこないからなあ。
だからエリアを絞って一点突破するほうが効率的。もしくは、ゲームで勉強するのも良いかも。
「レッドクリフ」の長編映画監督として有名な巨匠ジョン・ウーは、作曲家に音楽を頼む場合、
「今回の映画において何を表現したいのか」
「映画において、音楽はどんな役割を果たすべきなのか」
といったコアコンセプトを滔々と話すが
「どんな音楽にしてほしい」
「どんな楽器を使ってほしい」
といった具体的なリクエストは一切しないそうだ。
これは作曲家の能力をリスペストし、全面的な信頼を置いているからこそのリーダーシップのふるいかたと言える。(ちなみに、作曲家の能力が監督の期待値を下回る場合、途中でも容赦なく突然クビを切られるとの事。プロの世界は厳しい!)
この話を聞いて「なるほど」と思い、自分でも実行してみようと思ったら、少し待ったほうがよい。
もしあなたが会社員で新人を育てる役割を担っており、彼らに具体的なやり方を指示しないで、仕事の哲学/コンセプトだけを語るスタイルをとったとしたら、必ず混乱や不満が発生し、おそらくリーダーとしての信頼を失うだろう。
ジョン・ウー的なリーダーシップはどこでも通用する訳ではないし、下手をするとブラック上司呼ばわりされるかもしれないのだ。
では、いつどんなリーダーシップを振るえば良いのだろうか?
世のなかにはいろいろな「リーダーシップ論」があるが、ケン・チャードの「シチュエーショナルリーダーシップモデル(SLモデル)」に当てはめてみるとよく分かる。
人の成長は、まず「指示」が多く、自分で考える事を促す「サポート」が少ない「教示的段階」から始まり、上記のような線を描いて、「委任的段階」に至る。
つまり、最初の段階では、「教えてもらう」ことが基本にある。
もちろん、最初から、ある程度実力のある人だけを採用して育てたり、その分野において一定以上の能力がある人だけが生き残れるような指導もあり得る。
例えば、プロの世界(医者でも、プロ野球でも良い)には、ある程度以上の実力(センスを含む)がある人だけが入っているからこそ、監督は基本的に方向性やスピード感だけを指示すれば成り立つ。
それでついてこれないなら、その世界を去る方が、その人にとって幸せかも知れないのだ。
しかし、そもそも人材不足のご時世で、部下をえり好みできない一般的な会社のマネージャーにとって、上記のやり方が不適合であることは言うまでもない。
「これが私のリーダーシップのスタイルだ。だからついてこれない奴はやめろ」と言い切れるポジションにいない限り、リーダーシップはある程度相手に合わせる必要がある。 (会社員でそういうポジションにいる人は珍しいと思うが。)
お分かりの通り、世の中に溢れる一見矛盾する「リーダーシップのあるべき論」は、このSLモデルのどこかの段階を言っている事が多い。
「部下のモチベーションに依存しないようにマニュアルで標準化しろ」という主張も「プロ意識を持たせることだけに集中すればい良い」という主張も間違っていないが、使う相手が違う。
それをきちんと認識しないで、思いつきで現場でリーダーシップを使おうとすると、逆効果になってしまう。
ジョン・ウー的なリーダーシップが通用するのは、相手もプロレベル(=委任的段階)だからなのである。
まとめれば、
「リーダーは相手のレベル感を見極めて、適切なリーダーシップをふるいなさい」
ということだ。
ちなみに、このSLモデルは、武道、華道、書道など、およそ「道」と名のつくものに共通する「守破離」の学習モデルとも相性が良い。
守:師匠の技(型)を模倣し、身に付けるフェーズ
破:型に自分なりのアレンジを加えて発展させるフェーズ
離:自分なりの型を生み出すフェーズ
良い師匠は、弟子にうまくこの成長ステップを登らせる。
ただ、師匠がそこまで手取り足とり教えてくれなくても、ある程度セルフマネジメントも可能だ。
例えば、センスのいい人は、教えられないくてもロールモデルを自分で決めて私淑する(自己学習する)する。自分がなりたい人が、行動レベルで、どんなセルフルールを自分に課していたかを研究し、徹底的に模倣するのだ。
すると、ある時期から、表面的に観察できる「行動」の模倣では限界がある事に気づく。そこでもっと精神性(内面)の方に目が向くようになり、それ身につけるには、「型」にこだわらなくても良い事を悟る。
さらに、ロールモデルに惹かれた自分自身と向き合う事になり、「なぜ憧れたのか」という理由を自問自答することになる。
このような内省プロセスを通じて「破」のステージに自然にエスカレーションしていくのだ。
その先には「離」があるが、まさにSLモデルとぴったり一致している事がわかるだろう。
余談ながら、観阿弥世阿弥が「守破離」の元祖という解説をたまに見受けますが、これは「序破急」の誤り。
「守破離」のコンセプトが成立するのは茶道の流れからで、千利休のずっと後の江戸時代の茶人 川上不白です。
ご興味がある方は、松岡正剛氏の解説をどうぞ。
▼守破離の思想
http://1000ya.isis.ne.jp/1252.html
コロンボ市内の北のほうに、中国が海を埋め立てて建設を計画している
「ポートシティ計画」
がある。汚職と中国べったりだった前大統領のラジャパクサ氏時代に合意され、埋め立て地にチャイナタウンやカジノをつくるこの壮大な計画は、現職のシリセナ大統領になってから、中断された。
それがこのたび再開される事になった。
現在、ラジャパクサファミリーへの告発が相次いでおり、息子や兄弟が次々につかまっている。
内戦を「虐殺」によって終わらせたラジャパクサ前大統領の功罪は現在同国で問われているところだが、実質的に「平和」をもたらしたことで支持を取り付けていた同氏の賞味期限が急速に切れてきたというところだろう。
その意味では国内に自浄作用が働いているという事で歓迎すべき事だ。
さて中国主導のポートシティ計画再開だが、これは中国の
「真珠の首飾り」
計画とも関連しており、スリランカはうまくその誘いに乗ったふりながら、その力を利用して経済発展を目指すつもりだという事だろう。
まだまだ経済的には弱小のスリランカが、中国資本に飲み込まれてしまわないかやや心配だが、、今後年1回は同国を訪れるつもりなので、ぜひ現地の様子をまた書いてみたい。
欧米の大学では1年目に「クリティカルシンキング」とか「クリティカルリーディング」の重要性が何度も教授の言葉に出てくる。(僕の大学でもそうだった)
意味的には
「君たちはもう大学生なんだから、教科書に書いてあることを単に鵜呑みににするのではなく、社会の構成員として自分の頭でちゃんと考えなさいね(もちろん教科書は重要ですけど)」
ということ。もっといえば
「もし本に書かれていること(著者の主張)が間違っていると思うなら、それに挑戦して、自分なりに仮説を立てたり推論していいよ。それが学問を発展させるんだからね」
ということだ。もちろん何でもかんでも「批判的に見なさい(=文句を言いなさい)」ということではない。
で、ここからが本題だが、いろいろなところでディスカッションに参加したり、はたから見ていると、世の中には大きく二つのタイプがいることがわかる。
一つ目のは「批判」が中心のタイプ。社会が悪い。どこそこの会社が悪い。政治家が悪い、などなどがその典型。「保育園に落ちた日本死ね」「奨学金制度で借金地獄」みたいなものがそれにあたる。
いろいろな人の問題提起から、多くの人がその社会問題に関心を持ち、それがいつしかムーブメントになり、最後には国を動かすこともあるので、それはそれで価値があることだ。
ジャーナリステックな眼で問題の本質を炙りだす人がいなければ、謎のベースに包まれたままの問題も多いし、その問題にどの政治家がどう対処しているかを知る事は、選挙のときに参考にもなる。
もう一つは「解決型」のタイプ。例えば「保育園に落ちた」(=待機児童問題が深刻だ)という社会の
「不」
に対して、積極的に解決策を考えようという思考特性の人。先進国の事例を拾ってきたり、自分で事業を起こしている人などがこちら側の人に当たる。
で、この2つのタイプの人がディスカッションすると、当初はうまくかみ合わない。
「批判タイプ」を「解決タイプ」が見みれば
「いつまでも文句ばかり言ってないで、何か一つでも解決する方法を考えて実行してみれば」
という風になるし、
「批判タイプ」からみれば「解決タイプ」の言い草は、
「そんなもん私の仕事じゃない」
「お前は恵まれている立場にいるから、そんな悠長なことが言えるんだ」
といった風に捉えられる。
どっちも間違っていないのだが、この2タイプをうまくかみ合わせるのがファシリテーターの役所と言える。
研修などで「問題解決」を教えていると、またに「批判タイプ」の人がだんだん「解決タイプ」に変わっていくのが見えることがあり、見ていて面白い。
実は「批判タイプ」の根底には、「自分には何もできない」といった無意識の諦めや、「文句を言ったら、誰か賢い人が解決策を考えてくれる」という淡い期待があることが多い。
でもね。
そんな賢い人がいたら、世の中とっくに理想郷になっている。そうなっていないからには、自分で何を変えなければらないし、その力があると自分に分かると、変わっていくのかなーと思う。
月並みだけど、「クリティカルシンキング」と「問題解決」的な視点を合わせ持つ事が、大切なのだ。
最近、企業のグローバル研修をお手伝いする事があるが、その一環で海外関連会社でのインターンを経て帰ってきた方のコメントが面白かった。
その方曰く、
「海外では、上司でも部下でも自分の仕事のスタンスや方法を主張しなければ相手に理解してもらえない。もちろん主張すれば相手と対立する事もあるが、別にそれはネガティブな事ではなく、相手も主張をぶつけてきてディスカッションする中で、よいバランスを見つけていけば良いという事に気づいた。」
ある意味、私と逆の経験をされているのだなあと思い感慨深かった。
私自身のキャリアはアメリカで始まり、スリランカ、イスラエルの短い駐在を経て、日本企業へ勤務することになった。
一緒に仕事をする人は多くの場合、その道の「プロフェッショナル」である事が多く、彼らの要求レベルを満たすのに苦労した。
その一方で仕事自体は比較的やりやすかったし、そのレベルに追いつこうと、いろいろ勉強の機会をいただいたので感謝している。
ただミーティング等では、上司云々にかかわらず思った事を発言する欧米スタイルだったので、根回し等々の「日本式」に慣れている一部の人には煙たがられた事も確か。
「お前は生意気だ」
とばかり何度も睨まれたし、サラリーマンなりにそれなりに苦労もした。
そこで、徐々に自分のスタイルを「日本式」に合わせていったという経験がある。
今回グローバル研修を行った人の感想は、これの全く反対だったわけだ。
もちろんどっちがいい悪いという話ではなく、「郷に入りては郷に従え」という話。
ただグローバルを標榜する企業なら、年功序列をベースにした
「和」
を強要するカルチャー(空気)は変えていく必要があるし、自分たちの特殊性をある程度自覚した上で、マネジメントをしなければならないのだなと思う。
「和」は手段であり、目的ではないのだから。
ミスターミニットがiPhoneの画面修理をはじめたそうで、写真をパチリ。
ご存知の通り、スマホの画面は大きい。結果的に落とした時の角度が悪いと簡単に画面にビビが入ります。
電車などでバリバリに割れた画面のスマホを操作している人をよく見かけますが、これは需要もそれなりに多いことを示しています。
ではiPhone6の画面にヒビが入ったとして「Apple Store」やビックカメラなどにある正規修理センターに修理を依頼するといくらするのか?
答えは3−4万円ぐらい。
実は私もその値段に躊躇し、結局ヒビの入った画面のまま、機種乗り換えまで我慢した経験があります。(もちろんキャリアの保証プランに月300円ほどで入っていれば、ほとんどの修理代はカバーされるわけですが)
繁華街にいけば、微妙にアンダーグラウンド風なお店が
「1万円で修理します」
と看板を出していることがよくありますが、貴重な個人情報の入ったスマホを一定期間預けるのはどうも躊躇してしまうものです。(基本的には大丈夫なのでしょうけど)
その意味では、「ミスターミニット」という靴修理でブランドの確立されたお店でスマホ画面の修理するというのはある程度理にかなっていると思います。
(お絵かきモードでポジショニングをアップ)
交渉術風に言うと、お店にとって預かったスマホのデータを悪用するという「BATNA」を選ぶインセンティブが低く、結局ちゃんとしたサービスを提供した方が圧倒的に得なのです。(=消費者もそれを見越してからこそ安心できる。)
もしこれがちゃんと利益になるビジネスモデルなら、携帯ショップでもやればいいのにと思うのですが、いずれにしろ極端に分かれたサービスしかない業界で、
「中間のポジション」
で勝負するというのはありです。修理代は2万ぐらいなので、繁華街のお店に比べると多少高いのですが、ニーズはありそうな気がします。
ついでに靴の修理もやっちゃえば一石二鳥(同じロジックは散髪屋などでも使えそう)
興味深いコラムです。要は自由が制限されている仕事をしているとストレスがたまり、それが心臓病死亡率を高めるという話。
経営者は意思決定に対するストレスが高いのは当然ですが、「自由度」は高いので、相対的に心臓病は起こりにくいという推測が成り立ちます。
本文中にアイエンガー教授の著書の引用がありました。
ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジのマイケル・マーモット教授が、数十年にわたって指揮している研究プロジェクト、ホワイトホール研究は、選択の自由度に対する認識が健康に大きな影響を及ぼすことを、強力に実証する」(同書より)
マネジメントコントロール的には、
厳しい「行動コントロール」や「結果コントロール」で自由度が制限される環境に身を置き過ぎると寿命を縮めるので、自由度の高い
「環境コントロール」
が中心の世界に身を置く体制を作りなさい。サラリーマンとしてそうなるためには
「任せられる」
ための信頼度の向上や、そういう環境を選べる会社ににおきなさいということになる。