大人の考える技術

若林計志が経営・MBAのフレームワークやマネジメント理論を応用しながら、ビジネス・社会問題を考察します

守破離の作法(師匠を乗り越える気概)

武道でも華道でも、およそ”道”のつく世界の修行法として「守破離(シュハリ)」という学習プロセスが存在する。

「守」・・師匠の「型」をひたすら模倣する

「破」・・師匠の「型」を継承しつつ、その「型」を破る

「離」・・独自の道を切り拓き、新しい「型」を作る

おそらく、一番難しいのは「破」である。(もちろん「守」も簡単ではない)

カリスマだとか、達人だという事になると、それを超えるのは並大抵ではない。しかし超えると決断し、努力をしないと、一生師匠の出来の悪いコピーで終わることになる。

拙著「プロフェッショナルを演じる仕事術」では、ピカソに涙し、そしてピカソを超えようと誓った若き日の岡本太郎のエピソードを紹介しているが、こういう人はいつの時代も少数派だ。

たいていの場合は、その人を心酔し、尊敬するがあまり、教祖のようにして崇拝する方向に行ってしまう。「守破離」でいえば、自らの手で一生「守」で終わる道を選ぶのだ。

ピカソを尊敬するなら、ピカソを超えようなんて恐れ多いことは考えない。

そして、もし周りにそういう人を見つけようものなら、一生懸命に頭を叩こうとする。自分が崇拝するカリスマに挑戦しようなどと考えるのは、神に逆らう人間と同じで、恐れ多いフトドキモノなのだ。

実際に岡本太郎も「俺はピカソを超えた」と(あえて)宣言したので、ピカソかぶれの評論家達から

「お前はゲージュツが分かっていない!」

「色オンチだ」

などとさんざん攻撃を受けている。しかし岡本太郎の著書「青春ピカソ 」を読めば分かる通り、岡本太郎はそのあたりの評論家が足元にも及ばないほどピカソを理解し、尊敬していたのだ。(実際、フランス在住時代には親交もあった)

ピカソは、それまでの巨匠を凌駕する革命的な(アバンギャルドな)アートを生み出した。タローはそのピカソに感銘を受けたがゆえに、自らもその義務として、ピカソという権威を超えなければならないと誓ったのだ。

もう一度、書く。

守破離」で一番難しいのは「破」である。

本当の達人は、自分も過去に自分の師匠を超えてようと努力してきた経験を持つだけに、自分の弟子にも「破」をうながす。場合によっては突き放す。一生子飼いにしておいて、自分に依存させようなどとはつゆほども思っていない。(ある意味、オヤジと息子の親子関係に似ているかも知れない)

立川談志が晩年に、弟子の談春と落語会の記者会見した際に

「古典をやらせたら、こいつ(談春)が俺よりうまいんじゃないですか。俺の領域を荒らすぐらいにうまくなりやがった」

と言って嬉しいような、悲しいような表情をしている映像がある。

談志も師匠のところを飛び出し、立川流を作った。落語界という歴代の名人/重鎮がいる世界で、独自の道を行く決心は並大抵のものではなかったはずだ。

いわば「破」から「離」を作った人だったからこそ、弟子が自分を破った事を、喜んでいたのだろうと思う。(本人はシャイだからそうは言わなかったが)

師匠を超えるのは簡単ではない。実際には超えられないかもしれない。

しかし師匠を超えようという気概を持ち、挑戦するからこそ、はじめてそのレベルに近づけるのだ。初めから諦めて、依存しようとする姿勢からは何も生まれない。

せいぜい、師匠はこう言った、ああ言った、というコピペ言葉をもっともらしく語るぐらいがオチである。

*ちなみに「守破離」という言葉を、はじめて表したのは江戸の茶人・川上不白である。(観阿弥世阿弥は”序破急”と表現しているが、同じではない。)詳しくは松岡正剛氏の解説をどうぞ。

余談になるが、「ザ・ゴール」という世界的ベストセラーを生み出したゴールドラット氏が講演で次のように語っていた。

ユダヤには”師匠への最大の恩返しは師匠を超える事だ”という言葉がある。君たちは私を超えなければならないし、それは可能だ。なぜなら、君たちには私よりいい師匠がいるからだ。」

ユダヤ人が歴史の中で何度も苦難に晒されながらも生き残り、繁栄し続けてきた理由のひとつには、古い教えを単に守るのではなく、発展させていくというDNAが組み込まれていたからなのかも知れない。


・型があることがかえって「創造性」を刺激するケースが多くあります。それを考察したコラムです。

・型の中に、創造性が宿る

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